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第1回



 この度、本館の同修1の要請により、この道場で『無量寿経2』を解説することになった。今回は三回目になる。同じ道場で三回も講義するのは、さすがに多くないかと疑問に思う人もいるだろう。古い同修だと分かっていると思うが、同じ経典でも、こうして一緒に勉強をしていくと、毎回違った気づきがある。また、無量寿経を初めて学ぶ者や、これまで断片的でしか学んでいない人もいることから、今回の講話は非常に素晴らしい機縁になるので、大変よろしいかと思う。

 古代大徳の道綽大師3が一生をかけて、『観無量寿経』を二百回以上説いた4という。これが古代大徳の推奨する専修専弘のことだ。仏法は世間法とは違う。世法の勉学であれば、毎年同じ教科を教えるとすれば、同じ資料を使えばできる。一方、仏法の場合は修行の程度が年や月を重ねるたびに違ってくる。なので、同じ経典においても、理解できる部分が自ずと異なってくる。初発心から成仏まで、同じ経典でもその深さと広さは限界なく広がっていることを道場の古参同修でしたら理解できると思う。

 今日から三回目の解説になるが、まずはこの経典の概要を皆さんに説明する必要がある。経典の全体の内容についてある程度の認識があると、興味が沸いて、学習する意欲も増すことになる。また、資料に使う筆記は前のものと同じだが、解説の仕方が自然と変わってくると思う。それでは講述の因縁についてから始めるとしょう。

 まず、この『無量寿経』は仏法の中で、最も素晴らしい部分だと言える。皆さんもご存知の通り、大乗仏教の中で『華厳経』が第一経、根本法輪と言われている。『華厳経』の中で広がる世界は華蔵世界、または蓮華蔵世界という。実はそれが西方極楽世界のことを指している。西方極楽世界は蓮華世界とも呼ばれている。このことからも、この『無量寿経』は『華厳経』と非常に密接な関係があることが分かる。だから、中国清の乾隆時代の彭際清居士は『無量寿経』を中本の『華厳経』と呼んだ。八十巻からなる『華厳経』は大本、『無量寿経』は中本、小本は『仏説阿弥陀経』だという。この三つの経典は同じもので、文字数の違いによって、詳しいか概略だけかの違いがあるだけで、内容が全く同じといえる。

 それから、この経典は実に『華厳経』の最も素晴らしい部分だとしっかりと理解してもらいたい。『華厳経』は一生で円満できるのも、普賢菩薩が最後に十大願王を持って、極楽へ導帰するからだ。『無量寿経』は最初から最後まで極楽世界の依正荘厳を説いているから、『華厳経』の導帰になる。隋唐時代に古代の大徳らは『華厳経』も『法華経』も本経の引導と位置づけたけれども、言い過ぎではない。『華厳経』、『法華経』は私たちを浄土へ引導する役目にあって、そして浄土で一生円満が果たされる。

 特にここ数年、この経典について解説する機会が増えた。ここでは三回目だけど、ほかの地域、シンガポール、香港、アメリカで数回、カナダでも講義をした。回数が増えるにつれ、理解が深まり、ますます西方極楽浄土の素晴らしさが伝わってくる。まずは煩悩を断つのが速い。そうすると智慧が開くのが速いし、成仏するのも速い。成仏を果たすといち早く衆生を救えることだ。現代人は何事もスピードを重視しているので、この法門ほど手っ取り早いのがない。

 世尊は一般の経典の中で、通常の修行人が初発心をしてから成仏までの時間について、三阿僧祇劫かかるという。ここでの初発心者は私たちのことではない。『大乗起信論』は初発心について、発心「住」の菩薩のことを指している。『華厳経』では四十一位の法身大士のことが書かれているので、円教でいう初住が初発心に当たる。そこから三つの阿僧祇劫をかけて修行を重ねるとようやく成仏できるということ。一つ目の阿僧祇劫では三十の位、十住、十行、十回向まで上れる。この「劫」は小劫ではなく、天文数字だ。以前台中の慈光講座で簡単な方法でこの数字について説明したことがある。中国では万の万を億として、万の億を兆、この兆を単位にすると、千の下に万が八個付く。つまり、一千万万万万万万万万兆年になる。一つの阿僧祇劫で三十の位、二つ目の阿僧祇劫で七つの位、初地から七地まで、そして三つ目の阿僧祇劫で八地、九地、十地の三つだけを習得する。三つの大阿僧祇劫をかけて、法雲地菩薩、十地菩薩になるわけで、その上にはまた等覚、如来がある。

 上の位に行け行くほど、修得が難しい。この三段階から見ると良く分かる、第一段階では三十位、次は七つの位、第三段階では三つの位だけを修得する。一方、西方極楽浄土では成仏が非常に容易。経典を読めば、はっきりと書かれている。阿弥陀仏が西方極楽世界を完成してから現在まで十劫しか経っていない。まず十劫は阿僧祇劫とは全くの桁違いが分かる。それから、第一劫に往生した人たちはみな成仏している。第二劫の人たちも成仏している。第一劫の人たちが成仏したということは成仏するのにかかっても十劫。第二劫の人たちが成仏したということは十劫もかかっていないことになる。経典では西方世界の等覚菩薩の人数が多すぎて、計算のようがなくて、「但可以無量無辺阿僧祇説」と書いてある。ということは西方極楽世界へ往生した人はみな成就していて、等覚位の人は新しく往生する人よりも多いことが分かる。

 この十劫の中で、第五劫目までに往生した人たちが全員成就したとしても、西方世界の等覚菩薩が一般菩薩とはまだ半々で、多数とは言えない。しかし、経典では多数と説かれているので、つまり第六劫目に往生した人も成就したことになる。ということは、西方極楽世界で修行を重ねて成仏を目指すのに、おおむね三から四劫もあればできるということだ。ほかの世界では三阿僧祇劫もかかるのに、西方世界では三から四劫で成功する。皆さんもよく考えて見れば、どの法門が素晴らしいかが分かる。

 だからこそ、十方の一切の諸仏如来がこの法門を讃嘆しないものがいない。どの仏も我々にこの法門を修得するよう勧める。釈迦尊は『阿弥陀経』で四回も我々に西方極楽浄土を求めるよう勧めた。六方の諸仏が讃嘆するということは、一切の諸仏が口を揃って私たちに極楽浄土を推薦ということだ。最も素晴らしい法門でなければ、一切の諸仏の称賛を得られる訳がないし、我々に勧めることもないだろう。それでもこの法門を疑うならば、業障が大変重い人だといえる。大乗経典に出てくる「一闡提」のように、善根がなく、一切の諸仏が勧めても、聞かないし、信じないのであれば、手も足も出ない。

 現に非常に幸運なことに私たちはこの一生の中でこの法門に出会うことができた。そして、この法門に対してある程度の認識があったからこそ、この法門で深く修学すると決心をした訳だ。

そういうことで、同修らから再度『無量寿経』を講義してほしいと要請があったとき、私も迷わずに承諾した。ここだけではなく、シンガポールからもご要請があったので、今回からしっかりと録画をしてもらい、広く流通ができれば、さらに多くの同修たちの利益になるだろう。

 会集本の序文に梅光羲老居士はこのようにこの経典を紹介している:

【一乘了義。万善同歸。三根普被。凡聖齊收。超三界。逕登四土。極円極頓。不可思議之微妙法門。】

 短い文ではあるが、『無量寿経』のいいところをよくまとめている。古代の大徳は釈迦尊が四十九年間にかけて説いた一切経について分類をした。五乗仏法で分けると、その中で人や天人を目的の人天乗がある。しかし、三界から出られないので、究極的なものとは言えない。ほかの声聞乗、縁覚乗、菩薩乗を通常、三乗仏法という。二乗仏法で分けるなら大乗、小乗になる。世尊は後に法華会で「開権顕実」、つまり本当のことを話した:「唯有一乘法,無二亦無三,除佛方便?」と説いた。つまり、人天乗、声聞、縁覚、菩薩はみな方便説で、世尊の本意は一乗法にあることが分かる。

 一乗法とは何か?この一生にかけて成仏できる、しかも究極円満な仏になれるのが一乗という。密教では「即身成仏」もあるが、その「成仏」は究極の「了義」ではない。印光大師の『文鈔』で、密教の「成仏」は蔵教仏のことで、法身大士からまた程遠く、明心見性にはまだ至っていないと詳しく述べた。天台では蔵、通、別、円の四教説があって、それぞれ蔵教仏、通教佛、別教仏、そして円教仏を目指す訳で、ここで言う「一乗了義」はその中の円教仏のことだ。浄土法門で私たちはたったの一生で円教の仏果を得ることができるから、「一乗了義」と言える。

 後世の大徳が世尊の教えを分類し、一乗経と呼ばれる経典は三部だけある。第一に『華厳』、次に『法華』、そして『梵網経』。確かに『無量寿経』は入っていない。彭際清の説明がなければ、私たちだって疑うだろう。『無量寿経』が『華厳経』ならば、『華厳経』が一乗だから、『無量寿経』も一乗経。『阿弥陀経』は小本の『華厳経』だから同じく一乗経である。さらに、『華厳経』が一乗経というならば、この『無量寿経』は一乗の中の一乗と言えよう。『華厳経』の精華がこの『無量寿経』にあるから、一乗の中の一乗、了義の中でも真実了義と言える。浄土法門が分かると、この経の貴重さが分かる。そうすれば、ようやく万縁を放下することができる。この経が一切経で、この経を読誦すれば、釈迦尊の四十九年間の経典をすべて読むことになる。わざわざほかを当たる必要がなくなって、この経だけでことが済む。事実がそうだから。

 「万善同帰」。この「万善」とは、世間人が行う小善と違って、十方三世の一切諸仏如来が「修因証果、普度衆生」の善のことを指す。諸仏如来が修得したあらゆる善がすべてこの『無量寿経』に帰することを示している。

 「三根普被、凡聖齊収」。この法門の当機者を示す。どういう資格があればこの法門を修得できるのか?この文を読むと、だれでもできるという。三根は上、中、下根のこと。私たちは上根でなくとも、中、下根であっても成就できる。経典によると、この法門は人だけではなく、一切の衆生、餓鬼、畜生、地獄まで該当するという。『物猶如此』という書物に、畜生が念仏して往生することが書かれている。昔から多くの畜生が念仏して往生している。以前の説法に?虚法師の話をよく使う。?虚法師の師匠に当たる諦閑法師がかつて頭陀寺で住職をしていたとき、お寺のオス鶏が往生したという。鶏は畜生、畜生が念仏をすれば往生ができるし、餓鬼道でも念仏往生ができるし、地獄道も同じだ。

 九法界の衆生の根性が違うので、従って業報が異なる。しかし信願持名は同じなので、西方極楽世界へ生まれる際、その果報が平等に得られる。この経の題に「清浄平等覚」がある如く、この法門は平等法門で、因も果も平等、不思議。一切の諸仏国土には六道があって、十法界があるけど、西方世界にはない。法界が平等なので、六道がなければ、十法界もない。そこにあるのは一真法界で、『華厳経』で説かれたのと全く同じ世界が広がっているだけだ。

 「凡聖齊納」の「凡」は我々六道の住民のこと。「聖」は聖人、『華厳経』にはその代表が数名登場する。文殊、普賢は発願往生、善財童子も念仏して浄土への往生を求める法門に帰依している。大聖はみな浄土への往生を願う。我々凡夫はほかの法門では成就できないから仕方なくこの法門を選ぶことは理解できるけど、文殊や普賢のような等覚菩薩、毘盧遮那仏の両腕に当たる大菩薩はどうしてだろう?前に述べたように、修行は上に行け行くほど難しくなる。等覚菩薩でも最後の「生相無明」を突破して円満なる仏果を証するのに華蔵世界では大変難しく、長い時間を要するだろうと思われる。しかし西方極楽世界に行けば、一日で成功するから、当然往生を願う訳だ。彼らのような大菩薩が西方極楽世界に行くと、実報荘厳土の上品上生になるので、行けばすぐに成仏できる。阿弥陀仏の本願があるので、成仏をしても、四十八願の加護は依然と受けられる。

 「横出三界」。三界は六道輪廻のことを指す。輪廻を出ることは非常に難しいことで、昔から今日まで多くの修行人が目指してはいるが、出られる人がほとんどいない。どんなに修行を積んでいても、どんなに深い禅定が得られても、せいぜい四禅天、四空天へ行くだけで、三界から出られない。時期が来たら、同じように堕落する。修行には三大阿僧祇劫もかかるというとは、後退するからだ。進むのが少しずつで、いきなり大きく後退することはよくある。西方世界では円証三不退、進歩があるのみで後退がないから、速い。

 そして三界を横から出られるという。「横出」は人間だからできることで、この一生の中で六道輪廻を超越し、西方極楽世界への往生を果たす、これが「横超」という。阿羅漢や一般の菩薩の「縦出」は欲界天、色界天、無色界天と順序通りに進むので、我々のような容易ではない。

 「逕登四土」。西方極楽世界では円証四土。「逕」は速い。私たちの業障は一品も断ってないのに、業を持ったまま往生、極楽世界へ生まれる。そして、当然凡聖同居土になるだろう。しかし、西方世界は平等世界なので、我々の世界とは違う。この世界では凡聖同居土に我々はいるが、方便有餘土の聖人、阿羅漢を見えないし、実報荘厳土に住む菩薩も見えない。不平等だからだ。しかし、西方極楽世界ではみなが一緒に住むので、阿羅漢や菩薩、等覚菩薩と毎日一緒に生活をすることになる。四土といっても、一即是四、四即是一、これもまた不思議。十方一切の諸仏世界にはないことで、西方極楽世界だけがこうなっている。

 なぜ西方極楽世界がほかの世界と違うのかというと、『無量寿経』に答えがある。十方の諸仏刹土は仏の願力と衆生の業力から成っている。衆生の業は善業もあれば、悪業や無記業もある。非常に複雑にそれらが感応して、果報として今の世界がある。そうして、我々の娑婆世界はすでに無量劫の無量劫が経っている。一方、西方世界は新しい国土で、阿弥陀仏の願力で変現したもので、まだ十劫しか経っていない。西方世界はそもそも人がいなくて、ほかの世界からの移民から成り立っている。私たちの世界は先祖代々ここに住んでいるから移民の世界とは違う。

 阿弥陀仏の条件は多くない。しかし、心の清浄にこだわる、「心浄則土浄」。私たちの心は清浄ではないし、餓鬼、畜生、地獄の衆生になるとますますひどくなる言う人もいるだろう。清浄心は二つの方法で得ることができる。一つは決まった方法で修行を重ねると、得ることができる。もう一つは心から懺悔すること。悪道の衆生が往生するのに業障を懺悔で取り除く必要がある。その方法は?同修から聞かれたこともあったが、大悲懺、梁皇懺のことかと、それは違う。それらは我々の業障を取り除けないだろう。これは本当のことだ。以前、慈雲灌頂法師によると、我々の業障が重すぎて、取り除く方法がないと言い切った。ほかのどの経典もどの法門も効果がない。最後の方法として、南無阿弥陀仏!念仏で業障を除く方法だけ。

 念仏による懺悔の力は決してほかの経懺が比較できものではない!『無量寿経』には、将来世尊の法運が尽きた際、ほかの一切経が全部なくなっても、この経だけをさらに百年間残すと書かれている。念仏の功徳が大きいことを示している。言い換えると、衆生の病気は大変重く、ほかの医療方法も薬も効かない中、この薬だけが効き目がある。この経典は不思議な価値を持っている。こうして本物が目の前にあっても、それを認識する目利きが必要だ、分からないままでやり過ごすと大変もったいない。この第一法門を取らずして、第二、第三、第四、第五、第六をわざわざ選んだところで、肝心な病気が治せないならば、意味がない。私たちの問題を解決できるのはこの法門しかない!

 「極円極頓」。この四文字も一般の大乗経論と並べて考えてはならない。ここで言う「極円」は第一極円、「極頓」は第一頓超、唯一無二、円頓の究極を指す。これだけ不思議で微妙な法門だ。『無量寿経』は『阿弥陀経』と同じく私たちに「持名念仏」を教えている。『観経』でもそう。『観経』は念仏往生の方法を教える経ではあるが、残念なことにその方法の通りに実践する人がほとんどいない。それゆえに念仏する人は多いけど、往生する人が少ない。多くの人は「観想念仏、観像念仏、持名念仏」に関心がいくのはよいだが、肝心な基礎を忘れている。建築に例えると、大きなビルを建てることは習ったけど、基礎のことを忘れている。基礎がないのに、ビルを建てたところで、軽く揺らすだけで倒れてしまう。私たちの念仏にもこういう問題がある。

基礎とは、三福のことだ。韋提希夫人が往生の方法を釈迦尊に求めた時、釈迦尊は方法を夫人に教える前に、三福を教え、この三福こそが「三世諸仏浄業正因」と教えた。三世とは過去、現在、未来、一切の諸仏がどうやって成仏するのか?この三つの基礎、浄業正因に頼るしかない。つまり、八万四千の法門、無量の法門、どれを取るだろうと、この三つが基礎になる。基礎ができないと、どの法門をとっても意味がない。この三つのことが家を建てるときの基礎と同じように重視する必要がある。

 第一に「孝養父母」、私たちはできているのか?「奉事師長、慈心不殺、修十善業」、これが第一条。そして、第二条は「受持三帰、具足衆戒、不犯威儀」、できているだろうか?ここで注意してもらいたいのは、第二条は第一条ができたことを前提にしていることだ。基礎は三階構造から成っていて、一番下の第一条ができていなければ、三帰依や衆戒も上辺だけで嘘になる。受戒を受ける時、戒の本には「善男子、善女人」と書いているが、その善の標準が「孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業」。この四つができて初めて善男子、善女人と言えて、初めて三帰依、五戒を受ける資格がある。そして第三条、大乗仏法を習うものとしての基礎、「発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧信行者」。この三カ条の後に、世尊は「信願持名、求生浄土」を教えた。これが本当の信願持名の念仏。この方法で念仏すれば必ず往生できる。基礎を疎かにしたり、無視したりすると、信願念仏に効果が出ない。長年念仏をしても、往生に自信がないという方は、この基礎を忘れている。

 そういうことで、仏法の修行はどこからというと親孝行、「孝親尊師」から始める。この意義は深く、広い、これまで何度も解説をしてきた。皆さんもその録音テープや冊子から詳しいことを知ることができる。また、本図書館から『認識仏教』を最近出版した。以前アメリカのマイアミでの講義を収録している。第一回目はサンフランシスコの媽祖廟で講義はしたが、三十分しかなかったので、マイアミでは一週間をかけて、七から八時間はあったので、比較的詳しく解説ができた。今回出版して、初学の同修にとって、参考になると思う。

 念仏はこの基礎から始めることが非常に大事なことだ。『無量寿経』、『観経』、『阿弥陀経』に出てくる「善男子、善女人」の善の標準は三福を全部できていること。この法門は大乗の法門なので、善男子、善女人には具足三福の必要がある。三福の中で理解しにくいのが「深信因果」。ここの因果は通常の因果ではなく、「念仏が因、成仏が果」のことを指す。この因はこの経にある「持名念仏」のことで、ほかの因果ではない。「持名念仏」は簡単、容易、確実、快速。だれでもできる。無量法門の中で至高無上の第一法門。実は世出世法は同じく、最も素晴らしいことが最も簡単で行いやすい。中国の学術の大根本は『易経』という。やさしい、簡単!複雑で面倒なものは一流ではない。一流は必ず容易で、だれでも修学ができる。これが殊勝といい、第一という。だから、正しく理解して、正しい観念を持ち、誤解をしてはならない。でないと、第一、殊勝なる法門が目の前にあっても、やり過ごしてしまうから、惜しいことになる。

【円滿直捷。方便究竟。一超直入。最極円頓。】

 確実で方便。ある法門は方便だが究極ではない、そして究極だけど方便ではない法門もある中、この法門だけが方便でかつ究極、本当に得難い!「一超直入」、超は超越三界、超越輪廻、超越生死。直入は、諸仏の究極円満なる果地に入ること。ほかでもない、円教の仏果を得られるから、「最極円頓」といえよう。

【以彌陀一乘願海。】

 「一乗願海」は四十八願のこと。浄宗を専修している同修の朝の勤めに、ほかの経や真言ではなく、この四十八願、そして夕方はこの『無量寿経』の第三十二から三十七品を読誦するよう薦めている。朝の目的は阿弥陀仏の本願を私たちの宏願にしても、阿弥陀仏と同心同願、夜は阿弥陀仏の教えと照らし合わせて私たちの思想、見解、言行の反省と点検を行う。経文は仏や菩薩の心行の基準になるので、すべきことはしっかりと行い、してはならないことは決して行わない。三十二品から三十七品は日常生活の中で、人や物事に対する態度、言動について、修正の基準になる。諸仏や菩薩と同じような言動ができることを目標にすることが本当の修行。経文を仏や菩薩のために読むものではない。自分たちの確認、反省、修正のためだ。

 一切の諸仏は阿弥陀仏が衆生を接引する方法、つまり名号を使うのが素晴らしいと讃嘆する。名号の功徳は不思議!具体的にどういうところが不思議なのか、私たちは分かっているようで答えられない。古代大徳がなさった多くの比較に頼って、初めて少し分かったような気になる。これは非常に重要なことで、分かって始めて万縁を放下することができるし、少々のことでは動揺しなくなり、そしてこの法門が素晴らしいと心から認めるようになる。隋唐の大徳たちは(朝鮮や日本の大徳も含めて)、世尊が四十九年間に説いた一切経を分類し、比較した結果、『華厳経』が一位に選ばれた。『華厳経』を釈迦尊の根本法輪、つまり四十九年間説かれた一切経の概論や総論が『華厳経』だと位置づけた。ほかの経典は『華厳経』のある部分を詳細に説いたものだと説明した。『華厳経』はいかに重要かが分かる。

 『華厳経』と『無量寿経』を比較すると、『無量寿経』が一位になる。なぜかというと『華厳経』は最終的に『無量寿経』につながっていくから、『無量寿経』が『華厳経』の精華、綱要だ。今私たちが使っている経本では全部で四十八品ある。この中で、どれが一番かというと、当然第六品の阿弥陀仏が自ら立てられた四十八願になる。世尊は浄土法門のために多くの経論を説かれたが、四十八願の範疇から出ることはない。いずれも四十八願のどれかを詳しく説明するものばっかり。さらに、四十八願の中で、最も重要なのはどれかというと、古代大徳の公認で、第十八願になる。第十八願は本願の核心。その内容というと、「十念必生」、これが名号の功徳の不思議なところだ。『華厳経』は今日でいう『大蔵経』、『華厳経』は『大蔵経』を網羅している。『無量寿経』は『華厳経』を網羅している。四十八願は『無量寿経』を網羅し、そして四十八願をまとめると第十八願になる。こう整理をすると、教えが大きな山のようで、名号はその頂上部分に当たる。これでようやく一切経、あらゆる懺悔法でさえ消せない罪をどうしてこの名号が消せるかが分かる。

 ところで、今日私たちの業障は非常に深くて重い。名号を念じてもなぜ消せないという人がいる。実を言うと、それはまだ「念」のうちに入らない。嘘を称えているだけで、本物ではない!真念ならば消せるのだが、嘘の念では消せない。嘘の念は何か?有口無心の念。念仏の「念」の字を見るとよく分かる。「今」と「心」。心に本当にそれがあってこそ、念と言える。心にはなく、口だけでは、念とは言えない。念であれば、業障を消すことができるが、口だけで心になければ業障は消せない。心にあって、口になくとも業障は同じく消せる。だから「念」というのは心の念であって、口の念ではないことを皆さんに理解してもらいたい。念仏というのは心に仏があってこそ、本物だ。

 昨年アメリカから帰ってきたとき、ある老居士が会いにきた。その方は三年も念仏しているが、なかなか要領が得られないと私に訴えた。万縁を放下し、一心専念をすれば、だんだんと念仏の要領が分かってくると伝えたところ、彼も正直に、「法師、実はほかならなんでも放下できるが、孫のことだけはどうしても気になってしかたがない」。これで原因が分かった。口で仏のことを称えても、心には孫のことでいっぱい。念じているのは仏ではなく孫だ。口は仏、心は孫、困ったね。孫を念じるとまた六道輪廻を繰り返すことになるからね。彼にアドバイスとして、孫を阿弥陀仏に入れ替えるとうまくいくと伝えた。皆さんもそうだけど、日ごろから数珠をもって、口では南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えていて、孫、孫と称えていなくとも、心の中に孫がいる限り、阿弥陀仏を念じていないことになる。

 念というのは、一切時、一切処、最初に出た一つ目の思いが念という。口ではなく、心の中のことだ。いかにして「阿弥陀仏」を、『無量寿経』を私たちの心の中のものにするかが念仏、念経。念経というのは心に本当にこの経があること。経の教えがあって、経の理論、そして経の境界があって始めて本当の念経と言える。口だけで称えても、その後すっかりと忘れるのでは「念」とは言えない。心の中が空白のままで、仏もなければ経のないようでは成就できない。

 心にあれば、経典にある理論の最高原則の「是心是仏、是心作仏」と一致する。世尊は多くの大乗経典に「一切法従心想生」と説いた。心が仏を想えば、仏になる。孫を想うと大変なことになる。死んだら再び人間として生まれ、孫の息子になる。こういう例は結構ある。孫を想い、孫から離れたくないから、孫の息子になるか、孫の孫になるかというパターンにはまる。これもまだましのほうで、心善行善、五戒十善が具足しているから、また人間として生まれる資格がある。心や行いが不善だったら畜生道、餓鬼道に陥るともっと悪い。畜生道でしたらまた、孫のペットとして一緒になれる。外国人がペットを飼うのは、飼い主と密接な関係があるから、互いに思いを寄せられる。これも経典に書かれる道理と事実に合う。私たちは目を覚まして、冷静に考えると、何をとるべきかが分かってくるだろう。

 最も究極で円満、そして智慧に満ちた選択はやはり仏になることだ。なぜかというと仏だけが大自在ができる。一切の境縁(境は物質環境、縁は人事環境)の中で、自分が主宰となれれば、大自在が得られ、仏になる。私たちの家族や親戚を、どんなに想っていても、気をかけていても、自分に能力がなければ、何もできない。面倒を見ることだってできない。一方、西方極楽世界へ生まれると、智慧が生まれ、能力が備えられる。そのとき、家族がどの道に居ても、毎日見ることができる、毎日その声を聞くことができる。そして機縁が成熟したらすぐに彼らを済度することができる。これが本当の意味での面倒を見る。でなければ、中途半端で気持ちがあっても何も力になれない、もったいない。


脚注

1.同修行者。共に仏教を学ぶ者。
2.夏蓮居集『佛説大乗無量壽清浄平等覚経』使用、以降同様
3.道綽禅師(562-645)、著『安楽集』。
4.「恒講無量壽觀。將二百遍。」『大正新脩大蔵経』第50巻593頁

<第1回目終わり>

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